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だいちゃんの何でもSTUDY`Sブログ

~適応障害からの復活~

都市伝説好き、集まれ。

 

突然ですがブログのプロフ画像を

これに変えました。

反映されているかな?

 

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というわけで私は今日一日、

ブログを弄ってました。

デザインとか書きやすさを重視したら、

ワードプレスってのが一番だってあったから、

 

結構お金がかかるのね。

 

グーグルアドセンスってのも

友達にブログやっているのなら、

応募してみなって言われてやってみたけど、

まさかの一発合格!

 

こんな日記帳みたいなブログでも

評価してくれているのか。

ちょーうれしい!

 

まあどんなふうに使うのかなんて

全く調べてないけど、

お金になるのなら

彼女に好きなお菓子くらいは、

買ってあげたいな。

 

他には今日、

都市伝説について調べてました!

 

私は陰謀論とか、

戦国武将の都市伝説系も大好きで、

車の中ではいつも都市伝説のことを

流してドライブしてます。

 

今日はそんな私の都市伝説ならぬ

「推し伝説」を一つ。

 

本能寺の変で裏切った明智光秀は生きていた説」です。

 

明智光秀本能寺の変のあと、山崎の戦いに敗れて

逃げている最中に、「落ち武者狩り」に遭って死んだといいう説が

濃厚で、三日天下で終わったという話が有名なんですよね。

(実際は11日天下ですけど。。。)

 

 

でも実は信長転覆を図ったのは「羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)」で

徳川家康」との共謀のうえで

光秀を手ごまとして操ったという説があるんです!

 

信長を討ち、山崎の戦いにて光秀と対峙した秀吉は、

信長の敵討ちとしてこの戦いに挑みました。

 

ですがこれは天下統一に秀吉が名乗り上げるための

大義名分でただの「おとり合戦」だったとも言われているのです。

 

後に家康が天下取りに名乗りを上げると、

何故か「天海」という謎の老僧が家康の軍師的な役割で

登場するのです。

 

この天海こそが「明智光秀と言われています。

 

明智光秀は信長に仕えていた当初、今でいう「外交官」。

つまり諸大名や公家、朝廷との交渉役で手腕を発揮した人物でした。

 

関ヶ原の戦い時には西軍方の武将を次々と謎の手腕で、

寝返らせたのは天海だと言われています。

 

ではもし仮に、なぜ天海が明智光秀だとしたら、西軍に味方しなかったのか。

 

それは明智光秀の娘、お玉。

つまり細川ガラシャが原因だと言われています。

 

秀吉の死後、石田光成が関ヶ原の戦いに向け、

挙兵の準備をしていた頃、

 

「京都に住む家康方の武将は殺される」

 

という噂が流れました。

 

当時の諸大名は自分の家族にこんな命令を下していました。

 

「敵方の捕虜になるくらいなら自決せよ」

 

この命令のせいで明智光秀の娘、細川ガラシャは自刃したのです。

 

この経緯を鑑みると、明智光秀が生きていたとして、

西軍に味方するのはまずありえないですよね。

 

そこで明智光秀は家康側に

与することになったのです。

元々、仲が良かった家康と光秀は

すぐにタッグを組むことになり、

天下の裏切り者と代名詞があった

光秀の名を使うわけに行かないため、

 

天海と名乗ったのです。

 

天海が明智光秀だった痕跡はいくつかの残っています。

 

例えば、徳川家康が祀られている、

日光東照宮」の近くに「明智平」という地名があります。

 

この地名は「天海」が名付けたとされています。

 

また徳川ゆかりの地には明智の家紋が刻まれています。

これも不思議ですよね。

 

極めつけは徳川家の2代将軍「秀忠」、

3代将軍の「家光」

 

この二人の名前を入れ替えると、

「光秀」の名前が浮かび上がります。

 

このことから光秀生存説がまことしやかに語られているのです。

生きていなかったにせよ、自分の息子の名前に、

光秀の名前を刻むのは、家康もよっぽど光秀を慕っていたのでしょうね。

 

あくまで都市伝説ですが、、、

 

 

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